<9月20日追記 朝ドラ『らんまん』で関東大震災の回放送>【関東大震災から100年】特別な防災の日に揃えたい防災グッズ7選

そもそも関東大震災ってどんなものだったのか

1995年に阪神淡路大震災、2011年に東日本大震災と、ここ30年でも大変大きな震災が起こっていますので、100年前の関東大震災がどんなものだったのか、学校の授業では習ったけど記憶が曖昧…という方も多いのではないでしょうか。

ここでは、関東大震災がどんなものだったのかについて、要点をまとめてみました。

関東大震災とは

関東大震災は、1923年(大正12年)9月1日に起きた大地震のことで、今から100年前の出来事です。

首都東京や横浜といった当時の都市だけではなく、隣の千葉県やその隣の茨城県から、静岡県の東部にかけて、非常に広範囲に及ぶ大震災で、たくさんの被害をもたらしました。この地震はマグニチュード7.9という大きなもので、地震の揺れは、神奈川県中部から房総半島の南端まで、約100㎞にわたって観測しました。東京よりも神奈川の方が大きな揺れだったようです。

関東大震災の災害の特徴

昼食準備中の家庭を直撃:

関東大震災が発生した時刻は、お昼の11時58分32秒頃で、ちょうど昼食の時間に起きたため、多くの場所で火事を引き起こしました。あいにく風が強かったため、火は2日間も東京で燃え続けたといいます。この関東大震災では、東京の都心から下町にかけて、約半分の地域が火事で焼けてしまいました。横浜などでも大きな被害があり、多くの人が亡くなったり、行方不明になったりしました。その数は10万人以上に上りました。

燃えやすい木造建築物:

当時の東京市(現在の東京の一部)やその周りでは、たくさんの木造の家が立ち並んでいました。だから、地震で建物が壊れると、火が広がりやすくなりました。その結果、火事が大きな範囲に広がり、多くの人々が焼けてしまったのです。日本海沿岸を北上する台風による強風が関東地方に吹き込んでいたことも、大火災の広がりに拍車をかける形となりました。

関東大震災の本災で多かった死因は「焼死」です。これは、火事で亡くなることを意味します。

水・食糧不足による震災直後の騒動:

辛うじて逃げ延びた人々は、皇居前広場や公園などに腰を落ち着けました。しかし、水道や、鉄道・道路などの交通は遮断されてしまったため、人々の水や食糧への不安は募る一方となります。警察や軍による配給は行われたのですが、その配給物などを巡って騒動が多発します。

外国人や社会主義者の殺害:

関東大震災により、首都東京は電信・電話などの通信網が壊滅。そのため、被災者は正しい情報を受け取るすべがなく、震災直後から外国人が暴動を起こしたといったデマが飛び交う事態となりました。

これらのデマは被災者をパニックに陥れます。

未曽有の混乱を収めようと、政府は戒厳令を出して軍隊の力で治安維持を図りました。

しかし、こうした政府や警察・軍の動きは、返ってデマに信憑性を与えることとなります。

その結果、武装した民間の自警団が生まれ、警察や彼らの手によって、罪もない多数の外国人が殺害されるという悲劇を生みます。

また、警察や軍はパニックのどさくさに乗じて、理由をでっち上げて社会主義者らを拘束。労働運動家の平沢計七らが殺害された亀戸事件、無政府主義者大杉栄、伊藤野枝らが殺害された甘粕事件が発生したのです。 現代においても、東日本大震災の発生時にはSNSを通じて信憑性のないデマが拡散されました。情報化社会以前の関東大震災当時であれば、その混乱度合いは現代とはけた違いといえます。関東大震災100年を機に、こうした悲劇がなぜ生まれたのかという検証番組が放映されるなど、改めて関心が集まっています。


次のページでは「関東大震災からの復興と影響について」について深堀りしていきます。